「夢と希望をのせて氷川丸の栄光」〜神奈川県横浜市〜
2015年 日本郵船氷川丸 施工85年記念 寄贈作品
日本郵船氷川丸 竣工85年記念 寄贈作品
「夢と希望をのせて氷川丸の栄光」
〜神奈川県横浜市〜
絵 はせがわいさお お話 はせがわ芳見
氷川の大神様との出会い
2015年4月24日の夕暮れ時。
スターリィマンは、埼玉県の大宮にある
武蔵一宮氷川神社をめざして、
約2キロメートルもある長い参道を歩いていました。
この武蔵一宮氷川神社は、
今から2600年以上も前に建てられた
とても立派な由緒ある神社です。
この神社を「大いなる宮居」とあがめたことから、
この地を“大宮”と呼ぶようになりました。
ここの神社には、スサノオノミコトさま、
イナダヒメノミコトさま(スサノオ様の奥様)、
オオナムチノミコトさま(スサノオ様の子)という
3柱の神様がお祀りされていて、
中でも、スサノオノミコトさまという神様は、
ヤマタノオロチを退治したことで有名な
とても強い神様でした。
スサノオノミコトさまをここでは、
氷川の大神様とお呼びいたしましょう。
さて、昔むかし
日本を今のような都道府県ではなく、
何々の国とよんでいたころ。
現在の埼玉県、東京都、
そして神奈川県の川崎市と横浜市は、
『武蔵の国』という、ひとつの大きな国でした。
大宮の氷川神社は、武蔵国の一宮。
武蔵の国の中で最も格式の高い神社で、
明治天皇さまが京都から東京にお移りになった時、
最初にお参りされ、近代国家を築く誓いを
氷川の大神様にお立てになりました。
氷川の大神様からの願い
さて、スターリィマンが神社の拝殿の前に立つと
突然ひゅーっと風が吹き荒れ、氷川の大神様が現れました。
「スターリィマン。よく来てくれた。
そなたに頼みがあって呼んだのだ。」
「はい、氷川の大神様。その頼みとは?」
「実はな、横浜の山下公園で
そなたを待っている方がおるのだ。
明日、4月25日の朝を迎えるまでに、
その方に会いに行ってくれぬか?」
「分かりました。早速行って参ります。」
「私にとって、とてもとても大切な方なのだ。
どうか宜しく伝えてほしい。
それでは、気をつけてな。」
「ありがとうございます。」
スターリィマンは丁寧にお辞儀をすると、
横浜を目指し、氷川神社を後にしました。
氷川丸との出会い
すっかり夜もふけて、星が美しく輝く頃、
スターリィマンは山下公園に着きました。
「氷川の大神様の大切な方は、
どこにいらっしゃるのだろう?」
港を照らす明かりがきらきらと輝いています。
やわらかい春風が海の香りを運び、
波の音が静かに歌っています。
すると「スターリィマン」と
誰かが呼ぶ声が聞こえました。
スターリィマンが辺りを見渡していると、
「ここです。私はここにおりますよ。」とまた声が。
なんと、スターリィマンに話かけていたのは、
横浜港に浮かぶとても立派な船でした。
「初めまして、スターリィマン。
わたくしは 氷川丸と言います。
あなたがいらっしゃるのを
ずっと待っておりました。」
「氷川丸さん、初めまして。
あなたが大神様の大切な方ですね。
氷川丸、ということは…?」
「そう、わたくしは、
武蔵一宮氷川神社さまから
お名前をいただいたのでございます。
私が生まれたのは、昭和5年4月25日。
西暦で言うと1930年ね。
ちょうど明日で85歳を迎えるわ。
今でも忘れない。
わたくしが生まれた日のことを。
そして、たくさんの人々の人生と
共に生きてきたかけがえのない
あの日々のことを。
ねぇ、スターリィマン。
私のお話を聞いてくださるかしら?」
「はい、ぜひお聞かせください。」
貨客船・氷川丸の誕生
私は、日本とシアトルを結ぶ貨客船、氷川丸。
貨客船とは、荷物とお客様を一緒に運ぶ船のこと。
明治時代、日本は船でアメリカへの道を開くために
ニューヨークに一番速く着くグレート・ノーザン鉄道と、
シアトル定期航路を開きました。
当時の最高の技術を使って造られた私は、
武蔵一宮氷川神社にちなんで、
「氷川丸」と命名していただきました。
私自慢のアール・デコ様式の美しい内装は、
フランスのマルクシモン社が手掛けてくださって、
船内には、氷川神社の神紋である
八雲のレリーフがあるのよ。
船を操縦するお部屋にある神棚には、
氷川の大神様がお祀りされていて、
いつも航海の安全をお護りくださったわ。
いざ、シアトルへ出航!
「氷川丸、おめでとう!
氷川丸、いってらっしゃい!」
いよいよシアトル行きの準備が整い、
まずは横浜と神戸でお披露目していただいた私は、
四日市、清水をまわり、横浜へ。
そして、5月17日、シアトルに向けて旅立ったの。
初めて渡る太平洋。
果てしなく広がる水平線の彼方に、
どんな世界が待っているのかしら?
想像するだけで胸がドキドキしたわ。
横浜港を出てから10日後の5月27日夕方。
念願のシアトルに到着!
そこでは、 3万人近い人が
「HIKAWAMARU!(ハイカワマル)」
「HIKAWAMARU!(ハイカワマル)」と
わたくしの到着を待っていてくださって、
本当に感動したわ!
私が日本からシアトルに運んだ積荷の中で、
最大の貿易品は、生糸。そうシルクよ。
大事な生糸を守るために、
船内には「シルクルーム」という
専用倉庫まで完備されていました。
日本が誇る生糸産業は、
シアトル航路によってどんどん大きくなって
世界遺産に登録された冨岡製糸場を始め、
氷川神社のある大宮にも製糸場が作られたのです。
こうして遠くアメリカの地へ
生糸を運んだ私の功績が、
近代日本の発展につながっていったのよ。
貨客船としての華やかな活躍
それから、貨客船である私の
もう一つの大事なお仕事。
それは、お客様に贅沢な
船の旅を楽しんでいただくこと!
約2週間の長旅を楽しんでいただくために、
最高のお食事でおもてなしするのはもちろん、
映画やダンスパーティーなど
優雅な一時をお過ごしいただいたわ。
初代船長である秋吉七郎(しちろう)氏は、
とっても厳しいお方で、
氷川神社の名に恥じぬようにと、
正しい礼儀作法や規律を重んじていたの。
そのおもてなしの精神と努力が評判を呼び、
チャーリー・チャップリンさんや秩父宮両殿下など、
各国の貴賓や著名人を始め多くの人々から愛され、
私は、本当に幸せな日々を送っていたの。
第二次世界大戦、そして病院船へ・・・
でもね、そんな華やかで平和な時代は、
そう長くはなかったわ。
なぜなら、1937年に日中戦争が、
1939年には、第二次世界大戦が始まり、
私は病院船として戦地に向かうことになったのです。
私は、必死に役目を果たそうといたしました。
終戦までの3年半、戦地に医療品や食料を運んだり、
傷ついたり病気になった人たちを日本に運び、
24回の航路で3万人の人をお送りしたわ。
その間、私も戦闘機による空爆や
機雷の攻撃を受けたりと、幾多の危機がございました。
でも、一番傷ついたのは私の心です。
なぜアメリカの人々と憎しみ合い、争い合い
多くの命を失わなければならなかったのでしょう?
本当に辛い辛い時代でした。
1945年8月15日に京都の舞鶴のドックで
終戦を迎えた時は、思わず涙がこぼれたわ。
しかし、悲しみに暮れている暇はございません。
終戦当時、海外に取り残された日本人は、
軍人、民間人を合わせて、660万人もいたのですから!
戦後1年間は引き続き、病院船として
戦地に取り残された方々の救出に励み、
その後は、大陸からの引揚げにも努めました。
中には、日本を目の前に船の中で息を引き取る方もいて、
私は悔しくてなりませんでした。
1947年1月12日、ついに私は、
病院船としての役目を終えました。
最後まで共に闘い続けたお医者さんや看護婦さん、
乗組員の皆さんとお互いの健闘を讃え合い、
再会を約束し合ったわ。
GHQから外国航路を許可していただくまで、
私は北海道から本土へ食糧や石炭などを運んだり、
鉄道の代わりとして活躍し、
日本の復興を支えてまいりました。
再びシアトル定期航路へ・・・
そして1951年。
待ちに待った瞬間が訪れました。
とうとうGHQからシアトル定期航路
再開の許可が下りたのです!
もう二度と叶うことのないと思っていた
シアトルへの道。
1953年、 私は再び貨客船としての
かつての輝きを取り戻したのよ。
それから引退までの7年間は、
本当に夢の様な日々でございました。
1960年8月27日、
最後の航海に出た私を待っていたのは、
別れを惜しむ大勢の人々でした。
バンクーバーやシアトルで、
盛大なお別れ会を開催していただき、
10月1日に横浜へ。
そして、3日に最終寄港地の神戸に辿り着くと、
私の貨客船時代に幕が下りました。
戦前、戦中、戦後と激動の時代を生き抜きながら、
30年の間で約9万人もの人々を運び、
喜びも悲しみもすべて分かち合えたのも
きっと氷川の大神様のおかげね。
私にとって、何よりも誇りよ。
引退・そして横浜のシンボルへ
引退後は、横浜港の山下公園で
レストランやビアガーデン、
修学旅行生の宿泊施設などの観光船として
皆様をおもてなしいたしました。
2003年には、横浜市指定有形文化財に
指定していただいたわ。
そして、78歳の誕生日の2008年4月25日には、
「日本郵船氷川丸」として、新たな一歩をふみ出したの。
引退した私を、横浜のシンボルとして
皆さんが温かく迎えてくださって、
たくさん愛していただいて・・・
そのおかげで、今でもこうして
多くの方々と出会い、
素晴らしい日々を送ることが出来ているわ。
だから毎年、大晦日には
皆さんへの感謝の気持ちを込めて、
横浜港に汽笛を鳴り響かせているの。
今年もまた一年、皆さんが幸せで
平和でありますようにって。
氷川丸、85年の思い
今年で戦後70年。
そんな節目の年に85歳を迎えるのは、
本当に色々な想いが込み上げてくるわ。
日本は周りを海で囲まれた島国。
海の向こうにロマンと夢を描き、
お互いに思いやり、お互いに助け合う心を
大切にしてきた和の国。
そんな素晴らしい国、
日本に生まれた子ども達には
ふるさとを誇りに思い、
この世界の平和を守り、導いてくれる様な
立派な大人になっていただきたいわ。
スターリィマンは
氷川丸の言葉に強くうなずくと
やさしく微笑みながら言いました。
「実は、氷川の大神様から
お誕生日のメッセージをお預かりしています。
さぁ、目を閉じてください。」
氷川丸が目を閉じると、
氷川の大神様の声が聞こえてきました。
「氷川丸よ。この85年の間、
幾多の困難を乗り越え、
多くの人々の命や幸せを守り、
生きる希望や夢を与え続けてくれた。
これからもこの横浜で
みなと共に輝き続けてくれ。
氷川丸おめでとう。氷川丸ありがとう。」
喜びに溢れた氷川丸のほほに
ひとすじの涙が伝うと、
東の空から朝日がこぼれ始めました。
さぁ、いよいよ氷川丸の85歳の
お誕生日がやってきます。
スターリィマンは夢と希望の星が
いっぱいつまった風船を
明けゆく横浜の空に放ちました。
ハッピーバースデー氷川丸!
氷川丸おめでとう!!
氷川丸ありがとう!!
氷川丸の生きてきた85年の栄光は
いつまでもずっと色あせることなく、
過去と未来をつなぐ架け橋となって
私たちに夢と希望を運び続けてくれることでしょう。
2015年4月25日
日本郵船氷川丸
竣工85年記念寄贈作品(M50号キャンバス)
絵 はせがわいさお
お話 はせがわ芳見
※本作品は現在、氷川丸船内に展示されています